最後に残ったのは。。。

次女は今13歳。
そして同居している私の母は83歳。

 

今回の文章はページを超える長文になりますが。。。

 

今年2015年は

戦後70年である、と

各メディアが繰り返し

特集していますが、
終戦の時は、
母の年齢は
次女の

今の年齢だった事になります。

 

奇しくも
かつては

日本とは敵であったアメリカ、

 

加えて
真珠湾攻撃で有名な
パールハーバーのあるオアフ島に
3世代で住んでいます。

 

戦争中は
日本では次女と同年齢の
少年達でも、

 

自分の将来の選択肢等
一切なく、

 

強制的に兵役や
お国の為だと
指示された事に従うしかなく、

 

当時はそれが当然であり、
それに反する者は非国民だと
されていたといいます。

 

命を捧げる運命だと知りながら、
戦地に送り出す時には
家族や近所総出で
万歳!と送り出し、

 

捕虜になったら
自決するように教えられ、

 

挙げ句の果てには
戦局厳しい敗戦間近に
一億玉砕をスローガンにし、

 

その一億の人数には
日本が当時、勢力下においていた
他の地域の人口も入れて

 

国民の士気を上げて
本土決戦止むなし、と
煽ったという、

 

あの戦争は
一体何の為の、

 

誰の為の
戦争だったのでしょうか。

 

諸説はあるものの、
資源乏しい日本が
他の国へ戦いを挑み、

 

結局は
国民全てを道連れにしてでも
日本を滅ぼす方が
潔いといった思想を、

 

例え一部であったとしても
同じ日本人が考えていたというのは
信じ難い事実です。

 

 

戦争をテーマに語るのは
様々な立場や状況があり
中々難しい点があります。

 

ましてや
私のように戦争を知らない世代には、
経験、体験談として語れる事は
何一つありませんので、

 

意見や自分の考えを述べるのさえ
躊躇してしまいます。

 

それでも戦争をテーマに
書いてみたいと強く思ったのは、
母から聞く戦時中の話がきっかけでした。

 

私の娘達は
母から事実を聞ける機会がありますが、
誰もがそういう機会はありません。

 

また私はハワイに住み、
英語も解せるという違った状況もあります。

 

大学院時代に
ドイツに住んでいた時、

 

ドイツ人の友人達が
「ヒットラーはドイツ人ではなく、
オーストリア人だから」、と強調し、

 

オーストリアの友人達は、
それには触れないで、という雰囲気でした。

 

世界中で
戦争に

いい記憶を持っている人は
私が知る限りは居らず、

 

それでも
戦争が未だに絶えず、

 

日本では終戦だと繰り返し、
世界で起こっている現在の戦争は
人ごとのようで、

 

新たな法案は
戦争をする為ではない、というのは、

 

例え定義はそうであっても、
法案が通れば
日本から戦地に赴かなくてすんでも、

日本を
敵だとみなして
日本国内が
テロの標的に発展していく可能性も
増すかもしれません。

 

かといって、日本は
アメリカに敗戦して終戦になり、

 

そのアメリカの基で復興を
果たしたという事実もあり、
その際の条件には
様々な密約や
約束事もあったでしょう。

 

これらの私の意見や考えは、
これまで何十年も
あらゆる国に出向き、住み、

 

様々な宗教や人種、民族の方々と
直接お話をする機会があったからこそ
感じる

個人的な

感情抜きでの率直な感想です。

 

そして私は
ある時から色々な資料を入手し始め、
世界中の博物館や資料館も訪れ、

 

それらを自分以外の方達にも
発信したい、と思い始めました。

 

その中でも、今日はいくつかの真実を
列記してみたいと思います。

 

真珠湾攻撃 で
「トラトラトラ(奇襲二成功セリ)」と
発信した

淵田美津雄大佐 が、

 

その後、
かつては敵国であったアメリカに移住し
キリスト教の牧師になり、

 

アメリカで家族を持ち、
子供達はアメリカ市民であるというのを
どれだけの日本人が知っているでしょうか。

 

淵田大佐は
真珠湾攻撃の時の話を本にまとめ、
日本だけではなく
アメリカでも出版し、

 

私もその本を持っていますが、
淵田氏のサインと共に
聖書から引用する項目が自筆で記されています。

 

それを調べますと、

「主よ、お許し下さい。
若者達は何も知らなかったのです。」

といったことが書かれています。

 

また生前、淵田大佐自身が語った

英語での
インタビューを一部紹介しますと、

 

真珠湾攻撃は
3ヶ月前からトレーニングを始め、

 

爆弾をオーダーし、
勝利のパーティーでは
シャンパンで乾杯した。

 

「パールハーバーの後に
勝ったと思ったか、どうか?」については、

 

50:50だと思った。

 

攻撃から帰国して
天皇陛下から
皇居でメダルを授与された。
その時
皇居は飾り付けもしてあった。

 

だがこの攻撃は、
ハワイ占領やアメリカ本土への
決戦が目的ではなかった。

 

ガダルカナルの
戦争が始まった頃、
日本は負けると感じた。

 

それは
パールハーバー攻撃の翌年の事だったが、

 

何故なら
日本軍の勝利は
ドイツ軍にかかっていると思っていたから、

 

そのドイツの
戦況が思わしくなくなった時、
そう感じた。

 

また真珠湾攻撃の時は
アメリカを敵視していた訳ではなく、

 

そういった感情を持ち込む隙もなく
ただ義務として行った。

 

終戦と聞いた時には、自然に嬉しかった。

 

ただ終戦後、
敗戦したということについては
憤りを感じた。

 

でもその頃
多くの宣教師がやってきて、
特に東京には相当数の宣教師が
きていたが、

 

その時
戦時中の頃の人との
運命的な出逢いが

 

今こうしてアメリカに住む
きっかけであった。

 

東条英機については、
その頃、自分は彼が嫌いだった。

 

ネービーと
アーミーは
お互いに仲が悪かったから。

 

マッカーサーについては凄い人だと思ったし、
また彼は色々と尽力してくれた。
マッカーサーは日本国民からも歓迎されていた。。。

 

など一部ではありますが、
戦争についての
知られていない事実のエピソードや
資料は、まだまだたくさんあります。

 

また
クリント イーストウッド監督が、

 

日本からの視点と
アメリカからの視点で
撮影した、

 

硫黄島の戦いを
テーマにした映画があります。

 

日本からの視点で撮影した映画は

 

「硫黄島からの手紙」 で、

 

アメリカからの視点で
撮影した作品は、

 

「父親達の星条旗」 です。

 

事実に基づいたストーリーですが、

 

硫黄島に
星条旗 を掲げた
アメリカ兵達の写真は

 

ピューリッツァー賞を受賞し、
アメリカで
戦勝を最も象徴するものです。

 

その中の1人である
レイニーギャグノン という
兵士がいますが、

 

私は、この人の自筆の手紙を
数通持っています。

 

正に、

「硫黄島から出した手紙」です。

 

それを読むと
当時の心境や情勢、
アメリカ側の視点が明確に伝わり、

 

自分が歴史の瞬間に
立ち会っているような気さえ
してきます。

 

一言では言い尽くせない
戦争について

 

またいつか、
事実や真実と共に
伝える機会が
私にもあれば、と思います。

 

他にも広島の原爆についての
アメリカ側の資料や、

アメリカで
捕虜になった日本人の様子、

 

そして日本が負けた
決定的で意外な原因、

 

また
真珠湾攻撃を指揮した
山本五十六元帥 が

 

アメリカ軍によって
航空機を撃墜され
亡くなった経緯には
驚くような事実が
ありました。

 

暗号が解読されていた、と
されていますが、

 

元々
この一件では暗号等はなく、
普通に日本語で通信していたものを

ハワイの真珠湾攻撃によって
強制収容所に入れられていた
日系人の部隊が、

 

マッカーサー元帥に英訳して知らせ、
それを元に航空部隊が組まれ
撃墜されたのです。

 

戦後この日系部隊は
マッカーサー元帥と共に
復興の橋渡しの為に
日本へ赴任し、
天皇陛下とも面談をしています。

 

その時に
天皇陛下は、

 

「当時の立場や
事情もよく理解できます。

これから日本との橋渡しを
お願いします。」とおっしゃったそうです。

 

戦争の火蓋を切ったものの、
かなり早い段階から
勝算なしだとわかっていても、

 

また
「ポツダム宣言を受託しなければ
日本中を破壊する」、と迫られたのも
一蹴し、

 

最後に残ったのは
一体、何だったのでしょうか。

 

以前は
戦争について語ること自体が
タブーのような雰囲気がありましたが、

 

段々と
生き証人の世代が高齢になるに従って、
ようやく本音を語って下さる時代が
きたように思います。

 

私が聞いてきた中では、
どの国の方でも
戦争というものを
非難する声しか
ありませんでした。

 

また
今だから言えるのかもしれませんが、

日本は
アメリカには絶対に勝てる事が
できなかった理由を、

 

もっと早い段階で認識していたら
最初から
戦争をしなかったかもしれません。

 

そこには
驚くべき理由があったからです。

 

13歳の次女が、
小さい頃に言いました。

「子供が喧嘩をしていると、
大人が喧嘩をしてはいけませんよ、と言うのに、
何故、大人は戦争をするの?」

 

加害者、被害者、目的、理由、
大義名分、国益、どんな理由をもっても

 

戦争ほど、
愚かな行為はありません。

 

今日
真珠湾でも
追悼記念式典が行われ、

 

新潟県長岡市による
菊の花火が打ち上げられました。

 

長岡市は
真珠湾があるホノルル市と
姉妹都市です。

 

そして
ハワイの日系人部隊による
日本語翻訳の情報によって
撃墜された
山本五十六元帥は

その長岡市の出身です。

 

真珠湾攻撃の指揮者でもあり、
そして
自身がアメリカに住んでいたからこそ

「アメリカには勝てない」、と
最も戦争に反対していたとされる
山本五十六元帥。
こうして考えてみますと、

 

アメリカとの大戦の発端となった
真珠湾に関わる接点が多い事に
驚かされます。

 

最後に残ったのは

破壊された建造物と、

ご遺族と、

苦しく辛い記憶と、

そして、

 

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「戦争は絶対にしてはいけない」、

という教訓なのではないでしょうか。

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